鳥羽日記

なんとか亭日乗

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プロテスタンティズムの倫理にプロテスト

 タイトルで驚いたかと思われるが、私はカトリックではないし、なんなら初詣とかハロウィンとかクリスマスとか、世俗化され切った元宗教的行事に潮流に乗るまま参加するただの凡夫である(ハメは外さないようにしている)。それよりも、問題なのは『プロ倫』だ。

 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、言わずと知れた有名書籍である。イギリス産業革命プロテスタントの信仰義認説や予定説などによって裏打ちされた職務への勤勉さの産物だというのがその要旨だ。高校の国語系科目や倫理などの教科書でおなじみかもしれない。しかし思うのだが、そんな安易に『プロ倫』を礼賛して良いものだろうか。

 産業革命がイギリスで起こり、フランスその他ヨーロッパ諸国で起こらなかった理由についての論述で有名なものは『プロ倫』だけではない。ロバート・バローとラシェル・マクレアリーは、プロテスタンティズム産業革命の因果関係は認めるものの、それはプロテスタントたちが持つ識字率の高さが技術発展に寄与したに過ぎないという。またD.C.ノースは取引コストを削減する効率的な経済組織の発生に産業革命の端緒を見出している。カール・マルクスの「宗教は民衆のアヘンである」というテーゼと、技術水準が外生的に与えられるものであるという彼の理論も、同様に『プロ倫』説への反駁となるだろう。

 歴史家の立場に立てば、エリック・ウィリアムズは奴隷貿易にこそ産業革命の原動力があると主張しているし、I.ウォーラーステイン世界システム論者は徴税請負人への負担を重くして大衆からの直接の反発を抑えたイギリスの財政制度をその原因と見る。いずれにしても、ウェーバーの『プロ倫』説は複数の視点から見直されてしかるべきであり、断じてこれのみを教科書に載せて指導して良いものではないのだ。

 これは憶測だが、当然『プロ倫』において資本主義の発展と密接に関わるものはキリスト教プロテスタンティズムであり、カリキュラムに沿った包括的な学習が求められる学校教育においては、宗教改革から産業革命にいたる単線的な歴史観を提示する方が効率が良く、ために『プロ倫』説が称揚されているのではないだろうか。また、倫理科目で指導される宗教史に、世界史を用意に接続できるという利点もあるだろう。言わせてもらうが、歴史はそんな単線的ではない。複雑系であり、理解しがたく、その解釈をめぐって泥臭い論争が起こることだってままある。ウェーバーの説を指導するならば、それに相反する論説もまた紹介しなければ、片手落ちというものだろう。

 決してウェーバーの功績を否定しようという訳ではない。ウェーバーの「理念型・現実型」概念は、社会学歴史学など幅広い分野における重大なファクターとして今日においても重用されている。むしろこれを紹介すれば良さそうなものだが……。どうしてもウェーバーの具体的功績を中心に紹介したいならば、遺稿集の「経済と社会」などがよさそうなものだ。特に「権力と支配」は素晴らしい。ウェーバーと言えば『プロ倫』の人という認識も、これで改まることを切望する。

「大人の階段を上る」という構造に気づく

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

 今週のお題というものに初めて挑戦する。

 しょっぱなから面倒くさいことを書かせてもらうが、大人/子供の二元論的価値観からの脱却、それこそが「大人」というプロセスなのではないか。すなわち、20歳を過ぎたら一定の権利が認められるようになるという法的な「成人」こそあれ、「大人」など土台存在せず、「大人」の概念を解体していくプロセスにこそ「大人らしさ」があるのではないかと問いたい。

 内田樹は『寝ながら学べる構造主義』において、哲学者ラカンの主張を簡単に「大人になれ」と要約した。実際、その通りだ。ラカンは著書の中で幾つもの動的なイメージを図示することにより、ヒトが心理的に成長するプロセスを描出しきっている。素人が下手なことを得意そうに書き綴って文句を言われてはたまらないので、飽くまで皮相的なラカンの解説に留めたい。つまり、ヒトは抽象的な欲望を抱いており、その欲望を満足させるよう他者に要請するが、いかんせん無限大の欲望を満足させることは叶わず、挫折していく。ここに心理的成長のプロセスが見出せるのだ。(間違っていたらコメントなどでご指摘ください。責任は全て筆者に帰します)

 それでは大人とは何ぞや。「大人の階段上る」とは言うが、「大人の階段」を上り詰めた先に「大人」なるものが存在する訳ではない。そして、階段の一段一段を「大人1/10」とか「大人1/3」とかのように段階的に定義することもできない。「大人の階段」というものは無限大の長さを持ち、終着点もない。クザーヌスの神学論めいたことを言うと、無限大のものに対しては、全ての有限なものは同一だ。つまり、現在上っているプロセスも、過去に上っているプロセスも、未来に上るであろうプロセスも、全て同一だ。赤ん坊の頃に泣きわめくこと、こうして文章をタイプしていること、そして鬼籍に入ること、全てが同一なのだ。

 それでもあえて「大人」という言葉を「大人らしさ」という曖昧な定義に留まらせないようどこかに位置付けるとしたら、「無限大の長さを持つ大人の階段を上っている自分」という構造に気づいてこそ、かもしれない。逃れられない構造の中での、メタ認識だ。認識だけが飛翔する。

 いっそのこと、この構造認識を踏まえた上で「大人の階段を上る」ことに、動詞的な意味で「大人」という言葉を関連付けてしまえば良いのではないか。つまりこの記事を読んで「無限大の長さを持つ大人の階段を上る」構造に気づいた人は、「大人」している。もちろん私も「大人」している。

「パラサイト 半地下の家族」評価の評価、座標軸が少ない観客の怠慢について、今一度再考を

1.金曜ロードショーよ、もっと洋画を放送して

 金曜ロードショーポン・ジュノ監督作「パラサイト 半地下の家族」が放送されている。カメラワーク、軽妙な科白回し、観客をグラグラ揺さぶりにかかる展開、などなど評価すべき点は多岐に渡るが、いずれも既に議論し尽くされているのではないか。ならば、と。Twitterを徘徊して見つけたいくつかの評価を基に、「パラサイト」の評価をめぐる評価について書きたいと思う。なお、本記事はネタバレに配慮して可能な限り具体的な内容への言及は避けてはいるが、まだ当該作を観ていない方は念のため注意されたい。

 

2.異議あり

 数多ある本作の特徴の一つとして、韓国の格差社会を巡った政治的なテクストが織り込まれていることが挙げられるだろう。エンタメで求心力を得たところに出現する政治的言説がその効力を倍加していくことは容易に考えられるところではあるが、ポン・ジュノはその手法を巧い塩梅で活用している。しかし、その意味するところを果たして観客は正確に捉えられているだろうか。TwitterなどSNSを見るに、どうも本作の政治的性質を「告発」そのものだと認識している人間が多いようだ。

 確かに告発の要素は充分にある。が、果たしてそれだけか? エンタメ、諷刺など性質の違う様々な要素を巧みに組み合わせた上で、政治的テクストだけが告発の要素のみで成り立っているとは考えづらい。思うにSNS上の彼らは、政治的テクストを評価するにあたって、単純に告発という直線の上で作品の本質を論っているのではないだろうか。つまり、単直線のモデルだ。これでは視野狭窄を免れない。要は評価の座標軸が少ないのだ。

 

3.フラン/エラン・ヴィタールとして

 「パラサイト」を評価する上で、ラストシーン間際にソン・ガンホ演じるギテクが発した科白を考えてみるならば、本作の主張が告発の領域で済んでいるとは思えない。すなわちこれは、「告白」の言説なのだ。鬼気迫る「告発」の言説と、静かなる哀切を湛えた「告白」。専ら、前者は感情的、声高と捉えられ、後者は淡々としている、冷静と捉えられる。いつか記事を書いたように、生命の躍動と統制のせめぎ合いを、社会的な論旨という基礎の上に築き上げた作品として本作を評価することができるのではないか。告発と告白、二つの軸から成り立つ座標上に、本作を置くことが。

 

4.ちょっと擁護させて

 そうすると問題となるのは、告発と告白の座標軸を備えた上で作品を見る人間が、あまりに少なすぎるという点だ。いつか、池上彰氏がスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』のコミカライズを告発よりも告白の作品として評価していたが、Twitter上では何を思ったのかこの評価を叩く人間が数多現れていた。曰く「声高に訴えることの何が悪いのか」。曰く「どこが声高ではないのか」などなど。前者について、作品が採用したオルタナティブな手法を評価していた池上彰氏の言葉を曲解し過ぎであるし、後者に至ってはやはり告白の座標軸が足りていない。

 

5.観客の怠慢

 いま一度考えて欲しいのだが、作品が個々に採用する手法は様々であり、その追究の過程に芸術の研鑽がある。いかにして求心力を得るか。高度資本主義社会の現代において、そのために何が効果的であるのか見当するためには、表現者たちは常に新たな手法を模索せざるを得なくなっている。「パラサイト」は可能な限り多様な手法をアマルガムにして求心力を高めた作品だ。こういった作品を正当に評価するためには、我々観客側も怠慢ではいけない。凝り固まった評価の観点を今一度解きほぐし、座標軸を増やして柔軟に思考することが求められているのだ。

聖別とのろいとまじない(序?)

 ホラーやファンタジー作品において、非異常的な物品が異常性を帯びる、つまり聖別されることについて考えている。

 例えば清水崇監督作の「輪廻」において、過去に起こった事件と現在を繋ぐ媒体として8ミリカメラが登場する。物語に関わる際の演出や内部に録画されていた映像から、このカメラは霊的な異常性を備えた物品であることが明らかになるのだが、はてこの異常性はどこからやってくるのか、聖別されるのか。極言すれば幽霊がカメラを聖別しているのであるが、なんだか奇妙な、可笑しな話になってしまう。それもそうだ。8ミリカメラ自体は大量生産された製品のうちの一つに過ぎないのだし、幽霊が生前それを所持して使用していたからといって、そんな簡単に聖別されてしまっていいものか。なんだかちょっと、曖昧だ。

 「ハリー・ポッター」シリーズに登場するアイテム、分霊箱もまた聖別された物品だろう。分霊箱とは任意の非異常性のアイテムに生贄を捧げて自身の魂の一部を封じ込めることにより、自身が死なないためのセーフティ、あるいはバックアップとするものである。作中ではロンドンの書店で購入された何の変哲もないノートが分霊箱として機能しているが、これが聖別された理由は分かりやすい。何となれば、「生贄を捧げる」という「聖別の力の源の獲得」と、「魂を封じ込める」という「聖別の方向性の確定」が行われているからだ。呪文や儀式による形式が重んじられるファンタジー世界故の明解さだろうか。

 さて、ホラー的な聖別の曖昧さと、ファンタジー的な聖別の明解さという形で二項対立の形を作ってみた。差し当たっては「呪い」の対立と言える。すなわち、同じ「呪い」であっても、「のろい」と、「まじない」の対立だ。ここから更に思考を深めることはできるだろうか。分からないので、とりあえず本記事のタイトルには(序?)を付けておくことにする。これもまた、曖昧に聖別された記事の形と言えるか?

義務レットには早すぎる

 明けましておめでとうございます。今年もまたよろしくお願いします。

 

 新年は何かしら世界的な文学作品を読みながら迎えるということは前にも記した通りだが、予定していたバルザックではなく、ダンテの『神曲 地獄篇』を読むことにした。河出文庫平川祐弘訳だ。まだ序盤も序盤。更に言うならば『煉獄篇』や『天国篇』まで読むかは分からない。『天国篇』は特に難解なようなので、尻込みするばかりだ。こういうときに困るから古典的な名作は早いうちに読んだ方が良いというのに……とほほ……。

 正月だからとて特に言うことはない。そもそも正月だからといって何か特別なものが天から降ってくるわけではない。我々が特別な日にするよう努める日というだけなのだ。努力義務であって義務ではない。よって特別な日にしなければならない訳ではない。証明終わり!!

 ギムと言えば、レイモンド・チャンドラーのマーロウシリーズの名台詞に「ギムレットには早すぎる」というものがあるが、これを言ったのはマーロウ自身ではないことが意外に知られていない。

 ここでふと思う。ボッティチェリの描いた漏斗状の地獄、なんだかグラスに似ていないだろうか? これで酒を干したらさぞ刺激的な味がするに違いない。きっと極上の味だろう。あぁ。新年早々、酒が飲みたい。

コンテンツを貪る

1.一年

 2020年は、結局コロナウイルスに振り回される一年となってしまった。感染者およびその周辺の方々の痛苦は勿論のこと、人々の間で要らぬ分断が発生していったという点で非常に悲しい。

 外出自粛の機運の中で何かできることはないかと思って始めたこのブログではある(遅い)が、どれほど続けるかは今のところ未定である。とりあえず今の自分がどの辺りに位置していたかの目安として、一年の間に摂取したコンテンツをここに簡単に記していきたい。

 

2.小説

 まず小説である。今年は以前にも記した通りアジェンデ『精霊たちの家』に始まった。かのサルバドール・アジェンデの遠い親戚である作者が、激動のチリを生きる男と女を家族という視点から描いた。マジック・リアリスムの代表格でもある。

 存在しない本の書評集、レムの『完全な真空』。ビートニクの筆頭ケルアックの『オン・ザ・ロード』、幻想に包まれたチェコの街並みを描くアイヴァス『もうひとつの街』など、世界文学の分野で幅広く手に取った。バオ・ニン『戦争の悲しみ』も白眉である。

 恐怖小説の分野ではスティーヴン・キングの『アンダー・ザ・ドーム』も見事だ。大部だっただけにしり込みしていたが、自粛期間中に読破した。ドームに閉じ込められた町の中、それは閉鎖された地方空間に対する鉄槌と見えるか、あるいは鉄槌を下す側の赦しと成長と読み替えることもできそうだ。ジョルジュ・ランジュランの『蠅』はクローネンバーグの「ザ・フライ」の原作だ。かなり読みやすく、古典的なテーマを踏まえた恐怖小説という趣きだ。幻想文学、ゴシックホラー、モダンホラーの中間に位置するものとしてはマグラア『失われた探検家』も良い。

 国内のものでは朝宮運河編の『家が呼ぶ』が良アンソロジーだ。家ものホラーというジャンルが注目されているが、その入門としても最適ではないだろうか。皆川博子の「U BU ME」がいっとう怖い。阿澄思惟という謎めいた著者による『忌録:document X』も見事の一言。おススメできる。三津田信三の家シリーズも三冊ほど読んだ。本邦で三津田信三の右に出る家ものホラー作家はいないのではないだろうか? もっともっと読んでみたい。

 ライトノベルでは若き映画監督の魔術、野崎まど『[映]アムリタ』が良い。野崎まどの作品はまだまだあるので、ゆっくりと読んでいこう。川上稔の『連射王』もなかなかだった。久々にシューティングゲームをやり込みたくなる長編だ。これ以外にもまだまだあるが、長くなるので小説はこの辺で。

 

3.思想、哲学

 映画と哲学の連携を読みたいと思い、丹生谷貴志の『ドゥルーズ、映画、フーコー』を読んだ。映画に映る自然的なものの復讐といったくだりがあった筈だが(記憶が曖昧)、そこがまたかなり面白い。ドゥルーズ理解は不十分なのでこれからの指標にしよう。あとはウィトゲンシュタインハイデガーの入門書をそれぞれ読んだりした。ここら辺はYoutuberのネオ高等遊民様の紹介に頼った部分が大きい。陳謝!

 佐藤優キリスト教神学で読み解く共産主義』、これは私の知識不足故に上手く読書できたとは思えなかった。便利な参考文献までついているし、幸いにもKindleで購入しているので、字引的に利用するのも良いかもしれない。シュライエルマッハーのくだりについては例外的に良く覚えている。こういうとっかかりを大事にしたいものだ。

 

4.その他新書、学術書など

 広河『パレスチナ』、細見『フランクフルト学派』、木澤『ニック・ランドと新反動主義』、岡田『世界史の誕生』、小坂井『社会心理学講義』あたりを面白く読んだか。おや、ダイジェスト的になってきたって? ちょっと疲れてきてしまったので、勘弁してぇ……。木澤さんについてはたまにそこここで評論を見かける。今後も精力的に活動してほしい。

 カール・シュミットの入門書や、アナーキズム形而上学、そしてプラグマティズム関連の本もいくつか読んだ。いずれも現代思想を語る上で欠かせないものだ。シュミットに関しては慎重に解釈したいところだけどね。

 

5.漫画

 つばな『惑星クローゼット』、やわらかいタッチで繰り広げられる、グロテスク(現代的なスプラッタの意味だけでなく、前記事で紹介したような包摂的な意味で)異世界冒険譚。ついでに百合だ。そういえば百合SFというのも伴名練さんなどの作家がどんどん開拓しているようで、今後の読書の目標にしたい。それっぽいので言うと富沢ひとしエイリアン9』もその範疇か? これもセカイ系的な名作だ。といっても、セカイの側から声があり、登場人物たちはそれに応える側ではある。

 施川ユウキ『鬱ごはん』は良かった。まずそうなグルメ漫画っていうのもこれくらいじゃなかろうか? 最近は警察から逃亡しながらグルメ紀行をする漫画もあったりするので、全く食事というのはドラマなのだとつくづく感じる。例のワニ関連で華倫変『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』も呼んだ。少女の痛切な感情が拡散し、最終的には客観的には無慈悲、しかし当事者的には慈しみに溢れた静寂に包まれていく過程に、リアルで口を覆ってしまった。反出生主義の悲しさと、魅力に溢れた漫画である。

 忘れてはいけないkashmirの『てるみな』。ゲーム「ガラージュ」の世界を思わせる退廃的な街並みを、少女が電車でぶらり放浪。第一話からし京王線の車両が民家の軒先を削りながら走行したりする面妖な世界観。好きだ。

 

6.長い

 いやぁ、長い。経済書、アニメ、映画、ゲームについても語りたかったが、いかんせん疲れた!! という訳で、見切り発車テンションで始めたコンテンツ紹介はいったん打ち切りたい。またいつか機会があったら各ジャンルごとに2020年の総括をするかもしれない。しないかもしれない。予定なんて決めない方が柔軟に記事を執筆できるというものだ。何となれば、ここは私の箱庭だから!!

 それでは皆様、よいお年を。ねんまつ・つまんね。

グロテスク・パレード

 ヴォルフガング・カイザー『グロテスクなもの』を読んでいる。ボッシュ、地獄のブリューゲル、ポー、ホフマンら芸術界の巨匠を通じて「グロテスク」という言葉に秘められた深淵を解き明かそうという書物だ。集中しないと目が滑ってかなわない。ひとまず半分くらいで一息ついて、この記事を書いている。実に10日くらいぶりか?

 グロテスクという言葉の由来がネロ帝時代の宮殿ドムス・アウレア、通称グロッタの美術にあるということは有名である。すなわち、植物・動物・鉱物などの混合、物理的現実からの逸脱などの諸特徴が第一にあるのだ。それからグロテスクは諧謔や諷刺などの概念としばしば近接しながら、現代的なスプラッタの意味まで内包する射程の広い言葉となるのだが……それは置いておこう。一言で簡単にまとめるならば、我々人間が器となり、外部世界がふとした瞬間に霊的な存在となって内側に忍び込もうとしている事実を鑑みれば、世界は常にグロいものであると解釈ができるだろう。

 上記に基づけば、アニメ映画「パプリカ」の圧巻のパレードシーンはまさしくグロテスクなパレードだと言えるだろう。一見無秩序な無機物たちの配列は、外部世界が夢に陥入していくおぞましきパワーとして体系づけられたものなのだ。私はあのパレードに霊感を得る。ひょっとすると「グロテスク」という言葉自体が、あのパレードのようなものではないか? 人類が発見した、形而上の敵。人間を退廃と堕落に誘う外部世界は、「グロテスク」という言葉に宿って具体性を持つ。エロ・グロ・ナンセンスという形で自らを実現させるための子分を引き連れて、魔性の声で囁く。

 悪魔はグロテスクだ。そして、「グロテスク」が悪魔だ。

 

(主〇主義的オタクの続き? ごめぇん、ちょっと待って)