鳥羽日記

なんとか亭日乗

読者登録と☆を頂けると励みになります。

楕円形人生、ソラリス的人生、海からは語り得ない何物かが湧いてくる

1.もう二冊ぐらいは

 花田清輝の『復興期の精神』を講談社文芸文庫で読んでいる。これもKindle Unlimitedで無料で読める一冊だ。講談社文芸文庫には他にも花田の評論集があるものの、無料で読めるのはこれくらいか。ちょっと悲しい。もうちょっと無料で読みたかった。(図書館行け)

 

2.人生いろいろ、楕円もいろいろ

 さて、『復興期の精神』はレオナルド・ダ・ヴィンチやらダンテやらポーやらセルバンテスやら偉人の事績を通じて人の生とはなんたるかを追究したものである。分けても白眉と言えるのはヴィヨン-ゲーテ-アリストファネスの一連の論考を通じて浮かび上がってくる楕円的思考だろう。

 楕円というのは言わずもがな手で押しつぶした大福のような形だが、数学的な定義に倣うと、二点からの距離の和が一定となるような点の集合から作られる曲線ということになる。核を二つ持っているのだ。つまり真円とは異なり、その言葉を満たす図形の差異は単純な大きさにのみあるのではなく、二点間の距離によって定められるどのくらい真円っぽいか直線っぽいかという度合いもまた重要になるのだ。

 

3.生の弁証法

 花田はこの二つながら焦点を持つ楕円を、対立する事物の止揚の形として提示している。ん、なんだ弁証法が図示されただけではないか? 花田はわざわざ楕円という微妙にペダンティックな語彙を弄して何を言いたいのだろうか。

浪漫派のベルグソンのエラン・ヴィタールとともに、古典派のバビットのフラン・ヴィタールもまた、みとめざるを得ない、というわけである。

 ここに引用したエラン・ヴィタールとは、まずベルグソンが提唱した”生の飛躍”なる生命進化の一般規則なるものである。この絶え間なく(それこそ"持続"的に)発せられる謎めいた波動的エネルギーによって、われわれ生命は生きているのである。と雑駁ながら定義したい。

 一方でフラン・ヴィタールとは、バビットがエラン・ヴィタールの対抗軸として設定した語彙である。それはつまり、遠心的なエラン・ヴィタールに対する求心的なフラン・ヴィタール。生の飛躍に対する生の統制と言えるだろうか。エントロピーに対するネゲントロピーと言うと伝わりやすいかもしれない。(磁場を縫って走れ)

 花田は、この二つの対となる動きを楕円のモデルの中に取り込むのである。 要は、花田は楕円の焦点が二つあるということを通じて、その点がフラン/エラン両エネルギーの集中点だと示したかったのである。ラカンめいて軽妙な図示だ。

 

4.転変する生モデルの『ソラリス』、生命が存在すると想定すること

 安直な連想かもしれないが、花田も本文中で挙げている通り、楕円と聞くと惑星の軌道が思い浮かぶ。そして私たちは、この太陽系の楕円軌道が複雑怪奇な宇宙的物理現象によって決定されたものであることを何となく理解している。

 しかし、宇宙的な考え方としてその中心を太陽と考えるところまでは良いものの、数学的にその楕円の中心はどこであるかなどと考えてみたことはないのではないか。

 惑星軌道という巨大すぎる対象に対して花田の楕円的考え方を適用するならば、その数学的焦点を考察するよりも、宇宙的焦点が二つ存在するものを想像する方が容易い。要は、二つの恒星によって生み出される連星系を、である。SFマニアが憤慨しかねない喩えを出させてもらうと、私はスタニスワフ・レムの作品に登場する、惑星ソラリスを想起する。連星系軌道上を巡る謎めいた星。

 さて、ミステリにしろSFにしろ、世界にまつわる膨大な知識を前にしては、作家は多少のウソを混ぜなくてはならない。つまり、ちょっと曖昧なものでもそれはそういうものだということで作品を書いてしまうのである。『ソラリス』においては、それは連星系の惑星は環境の転変が激しいので、生命は発生し得ないという形で現れてくる。

 このソラリス的宇宙感、すなわち著しい転変が常に起こり得るというモデルを、そのまま花田の楕円的思考と関連させるのは短絡だろうか。生の飛躍と統制の末に生まれる、持続的転変の中にある惑星軌道として人生を省察すること、そこに生命、ひょっとすると自我や魂、レゾンメートルなど本来は発生し得ないというモデルを省察すること、それは無謀な試みだろうか。

 それでも作中でソラリスが海から生み出す生命っぽい何かを見ると、これは我々人類の本性を体現したもののように感じる。魂やら自我やら、存在し得ないものを想像の中に生み出す、悲しくもたくましいさが。それこそ、ラカン的理想自我の次元ではなかろうか。

 

終わりに

 完全に余談ではあるが、私は数年前に『ソラリス』を読んだきりずっとレムのウソに翻弄され続けている。レンセーケーのワクセーにセーメーが発生しないのは本当なのだろうか。まるで魔法にかけられてしまったようだ。だもんでレムのこのウソを私はスタニスワフ・マジックと呼んでいる。

 閑話休題。花田の話をしようと思ったらレムやらラカンやらすごい方向に行ってしまった。しかし花田の議論は射程範囲が広くて面白い。彼は戦後の日本思想を切り拓いたアバンギャルドな思想家の一人であるので、むしろこれくらいの度胸を持って論を展開する方が花田っぽさに合致すると言えばするのだろう。それこそ、ドストエフスキーのがスウィフトの作品を引用ミスしたというくだりから比量的思考についての考察が始まっているのだから、もう何でもアリである。(こういうと怒られそうだ)

 ひとまず、花田の文章を読んで学んだこととしてもうひとつ挙げるとするならば、自分のウソに自信をもって論を展開すべしという教訓だろう。まさしくスタニスワフ・マジック的に読み手を騙す覚悟で。

 

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

 
ソラリス (ハヤカワ文庫SF)

ソラリス (ハヤカワ文庫SF)