鳥羽日記

なんとか亭日乗

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盾であり、剪定ばさみであり、剣などでないもの

 フェルナンド・ペソアの『不穏の書、断章』(平凡社文庫)を読んだ。箴言めいた断章の一言一言が突き刺さる。「あらゆる詩はいつも翌日に書かれる」「我々は物語をかたる物語、無なのだ」「人生とは感嘆符と疑問符のあいだでためらうことだ」。このようなアフォリズム文学について、私はほとんど無知と言っても良いくらい疎い。しかし、千切れとんだ言葉の切れ端から漂う薫香ばかりは、如何な凡愚でも鋭敏に感じ取ってしまう。

 ペソアほどに言葉を鋭利に磨いた詩人は珍しいのではないだろうか。アフォリズムのような言葉少なに語るという営為には、それ相応の熱量を要する。無駄なく、スリム。

 考えてみると、たとえばTwitterなど文字数の制限があるSNSにおいては、このような箴言が創られやすいのではないだろうか。何となれば、皆がキャッチーな文言を求めて、迷路めいた文字と意味の狭間を揺蕩いながら旅を続けるのだ。刺激的で鋭利な言葉が生まれて当然である。俗に、それはバズワードとかパワーワードとか呼ばれる。

 しかし、昨今のTwitterの評判を見るに、どうもこの言葉の用法が苛烈で野蛮な方向に流れているのではないかと思えてならない。もはやネットニュースやTVなどで自明のものとなっているので、当該の騒動についてはあえて直接の言及を省く。しかし、以下の文章を読むことで大抵の方には”アレ”のことだと了解いただけるだろう。

 まず大前提として、人は何故言葉を使うのか。それは、自らのセカイと他者のセカイとの間に折り合いをつけるためだということをこの文章での共通認識とされたい。誰しもの主観の中に存在する深淵のごときセカイは際限なく膨張する危険性を秘めていることも、感覚的に納得いただけるのではないだろうか。誰しもがセカイを抱えているので、私のセカイはあなたのセカイに回収されてしまうかもしれない。それは私のセカイが誰かのセカイを呑み込んでしまうことと同様である。

頭の中は空より広い
なぜなら、二つを並べてごらん
頭に空が入るだろう
いともたやすく、あなたまでも

━━エミリ・ディキンソン

  人の言葉は、セカイの侵略に対する種の防衛本能として機能する。何となれば、人の社会とは個の集合であり、個を保つためには特定の個が別の個を侵蝕し、融合してはならないためである。絶え間なき個の融合の果てに待ち受けるのは、グンタイアリのような一個のシャカイ的生命体である。シャカイがそのまま一つの生物と化すのだ。それは残雪の『黄泥街』のような、物質と生物の境界すら曖昧になる魔境である。そして種族としての人は、そのようなシャカイ的生命体と化すことを認めない。そのようなシャカイは、人間の社会にどこにも見出せない。

あの町のはずれには黄泥街という通りがあった。まざまざと覚えている。けれども彼らはみな、そんな通りはないという。

━━残雪『黄泥街』より

 個のセカイの浸食を防ぐことで、人のシャカイ的生命体化は阻止できる。そのツールとして用いられるのが、言葉なのである。言葉は消極的な意味と積極的な意味で、シャカイ的生命体化を抑制する。

 まず消極的には、言葉はとなる。他者のセカイの氾濫を堰き止める防波堤として、言葉は堅固に個を守り、セカイを守る。

 そして積極的には、言葉は剪定ばさみとなる。零れ出た他者のセカイの余剰分を切除し、侵蝕を未然に防ぐのだ。

 言葉には、以上の二つの役割しかない。自らの立ち位置を確認するための言葉はすなわち盾であり、議論や論争の際の言葉は剪定ばさみだ。当然、議論の際には相手も剪定ばさみを用いてこちらの溢れたセカイを刈り取りにやってくる。健全な議論というものは、両者のセカイからおこがましくも漏れ出た部分を、お互いに切除し合うという点で健全な営みなのである。

 言葉にはこの二つの役割しか存在しない。しかし、やがて人は言葉をとある道具と錯覚する。である。

 本来、人が剣として用いているつもりの言葉は、ただの剪定ばさみでしかない。相手の余剰分を刈り取って自らのセカイを積極的に防衛するための機能であった剪定ばさみは、やがて人が他者のセカイを根本から破壊するための剣として用いられる。言葉の物象化の果てに訪れる、言葉を制した者のみがみじめさを脱却して真なる幸福へ至るという、大いなる錯覚だ。

 本来、言葉は道具でしかない。それは、マクロな視点では種族としての人がシャカイ的生命体化することなく社会的な営みをするための道具であり、ミクロな視点では個のセカイを他者のセカイの侵食から防ぐための道具であった。なので、いくら人は言葉を剣と錯覚しようが、盾であり剪定ばさみである言葉の機能そのものは損なわれない。問題なのは、セカイの余剰分が常に剪定ばさみで刈り取られることにより、セカイが固定される点である。仮に、自分のセカイが不特定多数の他者の剪定ばさみによって余剰分を刈り取られ続け、セカイの本質であった際限なき膨張性を失ったとすれば、どうだろう。それは、既に他者によってセカイを規定されている、他者のセカイに呑み込まれている形にはならないだろうか。

 SNSで行われているのは、まさしくこの営為なのである。相手の言葉(大抵の場合は剪定ばさみ)に不特定多数の人間が反応し、言葉を剣と錯覚し、実際のところ剪定ばさみで相手のセカイの余剰を切り取り続け、そして自分たちのセカイの支配下に置く。すなわち、炎上だ。炎上において、セカイを守るための言葉は、セカイを壊す道具となる。そしてそれは、セカイが消滅するまで続くだろう。例えば、相手が自殺するまで。

 SNS上の少なくない人間にとっては、剣としての言葉の虚妄を打ち払い、盾と剪定ばさみとしての言葉を強く意識するための実践が、具体的に言えば対話が欠けている。なんとなれば、炎上の中心人物は盾としての言葉を発動するまでもなく、不特定多数の剪定ばさみで切除され続けるので、もはや対話としての形を成さないためだ。このような剣士を恐れた者は、可能な限り炎上を起こさぬよう自分の言葉を専ら盾として用い、シールダーと化すだろう。

 シールダーと化した人間の弱点は、いざ剣士が目の前にやって来た際に、防戦一方で剪定ばさみとしての言葉を使うことができなくなることだ。これを克服するために必要な営みもまた、対話となる。アニメ映画「心が叫びたがってるんだ。」は、まさしく剣士とシールダーの和解を描いた作品として傑出している。以下の引用は、物語における剣士の成瀬順の言葉(もちろん剪定ばさみ)を、シールダーたる坂上拓実が受け入れ、和解を果たすシーンである。

俺、成瀬と同じだったよ。
喋りはするけど、本音とか思ったことを言わない癖がいつのまにかついててさ。
そしたら、誰かに本当に伝えたいことなんて何もないんじゃないかって思うようになった。
でも、成瀬と会って、お前は普段喋らないけど本当は伝えたいこととかいっぱいあって、そしたらさ、俺も何かまだ誰かに伝えたいこと喋りたいこといっぱいあったんじゃないかって。
俺、お前と会えて嬉しいんだ!
お前のおかげで俺、気付けた気がするんだ。

━━映画「心が叫びたがってるんだ。」より 

  SNSにおけるコミュニケーションなどと新時代感たっぷりの文句が叫ばれているが、実際のところSocial Networking ServiceのSocialとは、いったい何なのだろう。剣としての言葉を信仰する剣士たちが、やがてその価値観を共有してシャカイ的生命体と化すという意味なのだろうか。だとすれば、今のSNS環境は、人非人的であると言わざるを得ない。人のためのインターネットなどというものが創られるのは、いったいいつだろうか。言葉が世界全体を含んでいると言った、ペソアのためのSNSが。