鳥羽日記

なんとか亭日乗

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聖別とのろいとまじない(序?)

 ホラーやファンタジー作品において、非異常的な物品が異常性を帯びる、つまり聖別されることについて考えている。

 例えば清水崇監督作の「輪廻」において、過去に起こった事件と現在を繋ぐ媒体として8ミリカメラが登場する。物語に関わる際の演出や内部に録画されていた映像から、このカメラは霊的な異常性を備えた物品であることが明らかになるのだが、はてこの異常性はどこからやってくるのか、聖別されるのか。極言すれば幽霊がカメラを聖別しているのであるが、なんだか奇妙な、可笑しな話になってしまう。それもそうだ。8ミリカメラ自体は大量生産された製品のうちの一つに過ぎないのだし、幽霊が生前それを所持して使用していたからといって、そんな簡単に聖別されてしまっていいものか。なんだかちょっと、曖昧だ。

 「ハリー・ポッター」シリーズに登場するアイテム、分霊箱もまた聖別された物品だろう。分霊箱とは任意の非異常性のアイテムに生贄を捧げて自身の魂の一部を封じ込めることにより、自身が死なないためのセーフティ、あるいはバックアップとするものである。作中ではロンドンの書店で購入された何の変哲もないノートが分霊箱として機能しているが、これが聖別された理由は分かりやすい。何となれば、「生贄を捧げる」という「聖別の力の源の獲得」と、「魂を封じ込める」という「聖別の方向性の確定」が行われているからだ。呪文や儀式による形式が重んじられるファンタジー世界故の明解さだろうか。

 さて、ホラー的な聖別の曖昧さと、ファンタジー的な聖別の明解さという形で二項対立の形を作ってみた。差し当たっては「呪い」の対立と言える。すなわち、同じ「呪い」であっても、「のろい」と、「まじない」の対立だ。ここから更に思考を深めることはできるだろうか。分からないので、とりあえず本記事のタイトルには(序?)を付けておくことにする。これもまた、曖昧に聖別された記事の形と言えるか?