鳥羽日記

なんとか亭日乗

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「パラサイト 半地下の家族」評価の評価、座標軸が少ない観客の怠慢について、今一度再考を

1.金曜ロードショーよ、もっと洋画を放送して

 金曜ロードショーポン・ジュノ監督作「パラサイト 半地下の家族」が放送されている。カメラワーク、軽妙な科白回し、観客をグラグラ揺さぶりにかかる展開、などなど評価すべき点は多岐に渡るが、いずれも既に議論し尽くされているのではないか。ならば、と。Twitterを徘徊して見つけたいくつかの評価を基に、「パラサイト」の評価をめぐる評価について書きたいと思う。なお、本記事はネタバレに配慮して可能な限り具体的な内容への言及は避けてはいるが、まだ当該作を観ていない方は念のため注意されたい。

 

2.異議あり

 数多ある本作の特徴の一つとして、韓国の格差社会を巡った政治的なテクストが織り込まれていることが挙げられるだろう。エンタメで求心力を得たところに出現する政治的言説がその効力を倍加していくことは容易に考えられるところではあるが、ポン・ジュノはその手法を巧い塩梅で活用している。しかし、その意味するところを果たして観客は正確に捉えられているだろうか。TwitterなどSNSを見るに、どうも本作の政治的性質を「告発」そのものだと認識している人間が多いようだ。

 確かに告発の要素は充分にある。が、果たしてそれだけか? エンタメ、諷刺など性質の違う様々な要素を巧みに組み合わせた上で、政治的テクストだけが告発の要素のみで成り立っているとは考えづらい。思うにSNS上の彼らは、政治的テクストを評価するにあたって、単純に告発という直線の上で作品の本質を論っているのではないだろうか。つまり、単直線のモデルだ。これでは視野狭窄を免れない。要は評価の座標軸が少ないのだ。

 

3.フラン/エラン・ヴィタールとして

 「パラサイト」を評価する上で、ラストシーン間際にソン・ガンホ演じるギテクが発した科白を考えてみるならば、本作の主張が告発の領域で済んでいるとは思えない。すなわちこれは、「告白」の言説なのだ。鬼気迫る「告発」の言説と、静かなる哀切を湛えた「告白」。専ら、前者は感情的、声高と捉えられ、後者は淡々としている、冷静と捉えられる。いつか記事を書いたように、生命の躍動と統制のせめぎ合いを、社会的な論旨という基礎の上に築き上げた作品として本作を評価することができるのではないか。告発と告白、二つの軸から成り立つ座標上に、本作を置くことが。

 

4.ちょっと擁護させて

 そうすると問題となるのは、告発と告白の座標軸を備えた上で作品を見る人間が、あまりに少なすぎるという点だ。いつか、池上彰氏がスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』のコミカライズを告発よりも告白の作品として評価していたが、Twitter上では何を思ったのかこの評価を叩く人間が数多現れていた。曰く「声高に訴えることの何が悪いのか」。曰く「どこが声高ではないのか」などなど。前者について、作品が採用したオルタナティブな手法を評価していた池上彰氏の言葉を曲解し過ぎであるし、後者に至ってはやはり告白の座標軸が足りていない。

 

5.観客の怠慢

 いま一度考えて欲しいのだが、作品が個々に採用する手法は様々であり、その追究の過程に芸術の研鑽がある。いかにして求心力を得るか。高度資本主義社会の現代において、そのために何が効果的であるのか見当するためには、表現者たちは常に新たな手法を模索せざるを得なくなっている。「パラサイト」は可能な限り多様な手法をアマルガムにして求心力を高めた作品だ。こういった作品を正当に評価するためには、我々観客側も怠慢ではいけない。凝り固まった評価の観点を今一度解きほぐし、座標軸を増やして柔軟に思考することが求められているのだ。