「大人の階段を上る」という構造に気づく
今週のお題「大人になったなと感じるとき」
今週のお題というものに初めて挑戦する。
しょっぱなから面倒くさいことを書かせてもらうが、大人/子供の二元論的価値観からの脱却、それこそが「大人」というプロセスなのではないか。すなわち、20歳を過ぎたら一定の権利が認められるようになるという法的な「成人」こそあれ、「大人」など土台存在せず、「大人」の概念を解体していくプロセスにこそ「大人らしさ」があるのではないかと問いたい。
内田樹は『寝ながら学べる構造主義』において、哲学者ラカンの主張を簡単に「大人になれ」と要約した。実際、その通りだ。ラカンは著書の中で幾つもの動的なイメージを図示することにより、ヒトが心理的に成長するプロセスを描出しきっている。素人が下手なことを得意そうに書き綴って文句を言われてはたまらないので、飽くまで皮相的なラカンの解説に留めたい。つまり、ヒトは抽象的な欲望を抱いており、その欲望を満足させるよう他者に要請するが、いかんせん無限大の欲望を満足させることは叶わず、挫折していく。ここに心理的成長のプロセスが見出せるのだ。(間違っていたらコメントなどでご指摘ください。責任は全て筆者に帰します)
それでは大人とは何ぞや。「大人の階段上る」とは言うが、「大人の階段」を上り詰めた先に「大人」なるものが存在する訳ではない。そして、階段の一段一段を「大人1/10」とか「大人1/3」とかのように段階的に定義することもできない。「大人の階段」というものは無限大の長さを持ち、終着点もない。クザーヌスの神学論めいたことを言うと、無限大のものに対しては、全ての有限なものは同一だ。つまり、現在上っているプロセスも、過去に上っているプロセスも、未来に上るであろうプロセスも、全て同一だ。赤ん坊の頃に泣きわめくこと、こうして文章をタイプしていること、そして鬼籍に入ること、全てが同一なのだ。
それでもあえて「大人」という言葉を「大人らしさ」という曖昧な定義に留まらせないようどこかに位置付けるとしたら、「無限大の長さを持つ大人の階段を上っている自分」という構造に気づいてこそ、かもしれない。逃れられない構造の中での、メタ認識だ。認識だけが飛翔する。
いっそのこと、この構造認識を踏まえた上で「大人の階段を上る」ことに、動詞的な意味で「大人」という言葉を関連付けてしまえば良いのではないか。つまりこの記事を読んで「無限大の長さを持つ大人の階段を上る」構造に気づいた人は、「大人」している。もちろん私も「大人」している。