鳥羽日記

なんとか亭日乗

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とっくのとうに神は死んでいる

今週のお題「下書き供養」

 

 下書き供養というのがお題らしい。眠れないので、ついでに下書きの中に眠っていた、タイトルくらいしかまともに書かれていない記事を掘り出してきた。このタイトルからどう掘り下げるつもりだったのか、皆目見当もつかない。しかし、眠いのだから、眠気にすべてを任せて徒然なるままに書き綴ろう。いつかやったように、こじ付けと連想を駆使すれば記事の一本くらいはでっち上げられる筈だ。お題はそう、「とっくのとうに神は死んでいる」。

 

 ……まずはタイトルの要素を分解しよう。要素還元主義との誹りを受けそうではあるが、そもそもこんなタイトルには内容など端から存在せず、要素だけしかない抜け殻の状態だと解釈するのが妥当だ。よって、取るべきアプローチは要素を一つ一つ取り出すこと以外にない。ともあれ始めよう。

 差し当たっては、本記事のタイトルは「とっくのとうに」「神は」「死んでいる」の三つに分解できるだろう。「神は死んだ」というクリシェに準えて「神は」と「死んでいる」をまとめて「神は死んでいる」にしなくても良いのかだろうかという疑問が飛んできそうだが、これで問題はない。何となれば、そもそもそんなクリシェが念頭にあったのかすら定かでないのだ。むしろそのようにして固定観念を記号に押し付けるという行為は、意味の沈澱に他ならない。そういえば矢吹駆シリーズを久々に読みたくなってきたなぁ。

 閑話休題。ひとまず「とっくのとうに」を検討しよう。この強調的な言葉からして、おそらく現今話題になっていることが、とっくの昔に発生していたことを示すものだろう。この点に関しては問題はない。

 続いて、「神は」の検討をしたい。この「神」とは、宗教的な具体性を帯びた神ではないことは確かだ。すると、おそらくその同時代における支配的な思考方式、すなわちパラダイムのようなものだと考えられる。さて、それはどのような領域のパラダイムなのか。この「神」は現今において「死」んでいる筈だし、しかも私の主張の中では「とっくのとうに」「死」んでいることになっているのだ。昔に「神の死」があり、今、それと似たような現象が再来している。そうは考えられないか。

 では、この「神」とは何か。私のことであるし、往年の日銀理論を比喩的に述べたものなのだろうか……いや、日銀理論など現在では話題になることすら珍しい。それこそ自明であるし、もはや「とっくのとうに」などと強調する必要はない。しかし、思えば「死」とは何か。ここらで「神」に関してはペンディングとし、「死」の考察に移る必要があるように思えてきた。

 ここにきて「死んでいる」とは、「とっくのとうに」や「神は」とは異なり、曖昧でゆらぎのある言葉のように見えてきた。先ほど「神」とは現今のパラダイムであるとし、その理路で行くならば「死んでいる」とはすなわちパラダイム・シフトであると結論づけられそうなものだ。しかし、それでは肝心の「神」の正体に至ることはできない。「死」があって初めて「神」に至る。……しかし、あまりに「死」とは普遍的すぎやしないか?
 「死」が普遍的ならば、この記事において言葉の意味を特殊化させてしまえばいいだろう。と、私は以前書いた記事を見直す旅に出た。すぐにそれは見つかった。

 

masamichi-toba.hatenablog.com

 

 以前書いたこの記事において、私は二つの記事を放置したままにしていることについて告解した。結局その後何にも書いてないんだけど。ごめんち。

 ともあれ、その二つの記事の片割れに注目してみることとした。以下の記事である。

 

masamichi-toba.hatenablog.com

 

 この記事では、主意主義的オタクというものが既に誕生しているのではないかということを匂わせ、その詳細を語る権限を未来の私に譲った。その権限の行使に至っていないことはつい先ほど述べた通りだが、ここで一つネタバレをすると、私は主意主義的オタクを「物語の死」以後のオタクに準えようとしたのだ。

 ……それは『動物化するポストモダン』ではないか!? 仰る通りで、あの文章の示唆するところを乗り越えて新しい価値を提示しようとして行き詰っているからこそ続稿を書けずにいるのだ。ともあれ、この文脈から整理するに、「死」というものの意味が判明した。

 すなわち、「とっくのとうに神は死んでいる」とは、「神」=「物語」が「死」んでいる現在の状況は今に始まったものではなく、「とっくのとうに」起こっていたものだと看破したかったのだろう。多分。おそらく。きっとそうだ。

 ……あぁ、なんて無意味な文章。

 いい具合に眠くなってきたので、眠るとする。