鳥羽日記

なんとか亭日乗

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リマインド、もとい言葉たちの反逆

masamichi-toba.hatenablog.com

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 以上の二つの記事は私の罪を暴き立てるものである。と言うのも、上記の記事のどちらとも続編を匂わせておきながら、現時点で一文字も書き進めていないし、まして構想すら練っていない。つまり、当記事は私の告解、もといリマインドなのである。

 中途半端な形で記事を遺したため、「主○主義的オタク」に残された主意主義的オタクへの解説意欲や、「聖別とのろいとまじない」における「呪い」的二項対立の追究意欲、すなわち混乱した状態でまだ私の頭の中にいる言葉たちが、まさに私の指を通してキーボードに侵入し、文字データとなって目の前のノートPCを媒介にネットの海に飛び出そうとしている。言葉たちが、あふれ出そうだ。しかし、無秩序な文章は議論の更なる混乱を生む。当然、混乱は混乱のまま文章に起こして放流することもアリではある。しかし、そもそも上記二つのテーマについて、私はもう少し思考を洗練したうえで公開したいと考えているのだ。まったく、言い訳じみていて我ながら情けない。

 ともあれ、Twitterも始めたことだし、このリマインドがものぐさな私に対して如何な効果を発揮するか。それは……未来の私に任せるとする。

Twitterはじめました

 そういうお知らせです。

 サイドバーの方にフォローボタンも追加しましたが、何故だか右側に少しだけはみ出すというみっともない状態になってしまいました。よろしければ修正方法を教えていただけると幸甚です。

盾であり、剪定ばさみであり、剣などでないもの

 フェルナンド・ペソアの『不穏の書、断章』(平凡社文庫)を読んだ。箴言めいた断章の一言一言が突き刺さる。「あらゆる詩はいつも翌日に書かれる」「我々は物語をかたる物語、無なのだ」「人生とは感嘆符と疑問符のあいだでためらうことだ」。このようなアフォリズム文学について、私はほとんど無知と言っても良いくらい疎い。しかし、千切れとんだ言葉の切れ端から漂う薫香ばかりは、如何な凡愚でも鋭敏に感じ取ってしまう。

 ペソアほどに言葉を鋭利に磨いた詩人は珍しいのではないだろうか。アフォリズムのような言葉少なに語るという営為には、それ相応の熱量を要する。無駄なく、スリム。

 考えてみると、たとえばTwitterなど文字数の制限があるSNSにおいては、このような箴言が創られやすいのではないだろうか。何となれば、皆がキャッチーな文言を求めて、迷路めいた文字と意味の狭間を揺蕩いながら旅を続けるのだ。刺激的で鋭利な言葉が生まれて当然である。俗に、それはバズワードとかパワーワードとか呼ばれる。

 しかし、昨今のTwitterの評判を見るに、どうもこの言葉の用法が苛烈で野蛮な方向に流れているのではないかと思えてならない。もはやネットニュースやTVなどで自明のものとなっているので、当該の騒動についてはあえて直接の言及を省く。しかし、以下の文章を読むことで大抵の方には”アレ”のことだと了解いただけるだろう。

 まず大前提として、人は何故言葉を使うのか。それは、自らのセカイと他者のセカイとの間に折り合いをつけるためだということをこの文章での共通認識とされたい。誰しもの主観の中に存在する深淵のごときセカイは際限なく膨張する危険性を秘めていることも、感覚的に納得いただけるのではないだろうか。誰しもがセカイを抱えているので、私のセカイはあなたのセカイに回収されてしまうかもしれない。それは私のセカイが誰かのセカイを呑み込んでしまうことと同様である。

頭の中は空より広い
なぜなら、二つを並べてごらん
頭に空が入るだろう
いともたやすく、あなたまでも

━━エミリ・ディキンソン

  人の言葉は、セカイの侵略に対する種の防衛本能として機能する。何となれば、人の社会とは個の集合であり、個を保つためには特定の個が別の個を侵蝕し、融合してはならないためである。絶え間なき個の融合の果てに待ち受けるのは、グンタイアリのような一個のシャカイ的生命体である。シャカイがそのまま一つの生物と化すのだ。それは残雪の『黄泥街』のような、物質と生物の境界すら曖昧になる魔境である。そして種族としての人は、そのようなシャカイ的生命体と化すことを認めない。そのようなシャカイは、人間の社会にどこにも見出せない。

あの町のはずれには黄泥街という通りがあった。まざまざと覚えている。けれども彼らはみな、そんな通りはないという。

━━残雪『黄泥街』より

 個のセカイの浸食を防ぐことで、人のシャカイ的生命体化は阻止できる。そのツールとして用いられるのが、言葉なのである。言葉は消極的な意味と積極的な意味で、シャカイ的生命体化を抑制する。

 まず消極的には、言葉はとなる。他者のセカイの氾濫を堰き止める防波堤として、言葉は堅固に個を守り、セカイを守る。

 そして積極的には、言葉は剪定ばさみとなる。零れ出た他者のセカイの余剰分を切除し、侵蝕を未然に防ぐのだ。

 言葉には、以上の二つの役割しかない。自らの立ち位置を確認するための言葉はすなわち盾であり、議論や論争の際の言葉は剪定ばさみだ。当然、議論の際には相手も剪定ばさみを用いてこちらの溢れたセカイを刈り取りにやってくる。健全な議論というものは、両者のセカイからおこがましくも漏れ出た部分を、お互いに切除し合うという点で健全な営みなのである。

 言葉にはこの二つの役割しか存在しない。しかし、やがて人は言葉をとある道具と錯覚する。である。

 本来、人が剣として用いているつもりの言葉は、ただの剪定ばさみでしかない。相手の余剰分を刈り取って自らのセカイを積極的に防衛するための機能であった剪定ばさみは、やがて人が他者のセカイを根本から破壊するための剣として用いられる。言葉の物象化の果てに訪れる、言葉を制した者のみがみじめさを脱却して真なる幸福へ至るという、大いなる錯覚だ。

 本来、言葉は道具でしかない。それは、マクロな視点では種族としての人がシャカイ的生命体化することなく社会的な営みをするための道具であり、ミクロな視点では個のセカイを他者のセカイの侵食から防ぐための道具であった。なので、いくら人は言葉を剣と錯覚しようが、盾であり剪定ばさみである言葉の機能そのものは損なわれない。問題なのは、セカイの余剰分が常に剪定ばさみで刈り取られることにより、セカイが固定される点である。仮に、自分のセカイが不特定多数の他者の剪定ばさみによって余剰分を刈り取られ続け、セカイの本質であった際限なき膨張性を失ったとすれば、どうだろう。それは、既に他者によってセカイを規定されている、他者のセカイに呑み込まれている形にはならないだろうか。

 SNSで行われているのは、まさしくこの営為なのである。相手の言葉(大抵の場合は剪定ばさみ)に不特定多数の人間が反応し、言葉を剣と錯覚し、実際のところ剪定ばさみで相手のセカイの余剰を切り取り続け、そして自分たちのセカイの支配下に置く。すなわち、炎上だ。炎上において、セカイを守るための言葉は、セカイを壊す道具となる。そしてそれは、セカイが消滅するまで続くだろう。例えば、相手が自殺するまで。

 SNS上の少なくない人間にとっては、剣としての言葉の虚妄を打ち払い、盾と剪定ばさみとしての言葉を強く意識するための実践が、具体的に言えば対話が欠けている。なんとなれば、炎上の中心人物は盾としての言葉を発動するまでもなく、不特定多数の剪定ばさみで切除され続けるので、もはや対話としての形を成さないためだ。このような剣士を恐れた者は、可能な限り炎上を起こさぬよう自分の言葉を専ら盾として用い、シールダーと化すだろう。

 シールダーと化した人間の弱点は、いざ剣士が目の前にやって来た際に、防戦一方で剪定ばさみとしての言葉を使うことができなくなることだ。これを克服するために必要な営みもまた、対話となる。アニメ映画「心が叫びたがってるんだ。」は、まさしく剣士とシールダーの和解を描いた作品として傑出している。以下の引用は、物語における剣士の成瀬順の言葉(もちろん剪定ばさみ)を、シールダーたる坂上拓実が受け入れ、和解を果たすシーンである。

俺、成瀬と同じだったよ。
喋りはするけど、本音とか思ったことを言わない癖がいつのまにかついててさ。
そしたら、誰かに本当に伝えたいことなんて何もないんじゃないかって思うようになった。
でも、成瀬と会って、お前は普段喋らないけど本当は伝えたいこととかいっぱいあって、そしたらさ、俺も何かまだ誰かに伝えたいこと喋りたいこといっぱいあったんじゃないかって。
俺、お前と会えて嬉しいんだ!
お前のおかげで俺、気付けた気がするんだ。

━━映画「心が叫びたがってるんだ。」より 

  SNSにおけるコミュニケーションなどと新時代感たっぷりの文句が叫ばれているが、実際のところSocial Networking ServiceのSocialとは、いったい何なのだろう。剣としての言葉を信仰する剣士たちが、やがてその価値観を共有してシャカイ的生命体と化すという意味なのだろうか。だとすれば、今のSNS環境は、人非人的であると言わざるを得ない。人のためのインターネットなどというものが創られるのは、いったいいつだろうか。言葉が世界全体を含んでいると言った、ペソアのためのSNSが。

懺悔 済んではいけないべや!

 最近割に多忙でブログの更新ができていない。言うなればこれは生存報告というやつである。懺悔。懺悔懺悔。

 大したことを書くつもりでもないのだから、TwitterなどSNSをやってはどうか? それも考えてはみたが、ここ最近のTwitterのトレンドを見るに、こんな荒波に揉まれながらブログを更新し続けられるかは甚だ疑問である。特に昨今の社会学批判(主に頭にエセが付く)、千葉雅也氏の射精と生理には似たようなところがある発言の炎上(中動態のことだと思うのだが)、荒木優太氏と文學界間の批評文をめぐるすったもんだ、書籍『闇の自己啓発』を受けての批評かくあるべし論、ナチスのあれこれ、量子力学のあれこれ、もう端から見ているだけで腹はいっぱいだ。

 そういう訳で、SNSを始めるかどうかについては慎重になりたい。数ヶ月単位で更新が滞るようなら考えてみるのもアリか。

ねむけ

 書店に行くと井上雅彦ら実力作家らのアンソロジー『さむけ』をよく目にする。表紙が黒字に白抜きの著者名と四角い枠内のタイトルだけなので、結構目立つのだ。……まぁそれだけの話だ。

 一体なぜこんな話をしたのか。それはこういう次第である。一週間程度更新をしていなかったので、これはまずいと即席で記事を書こうと思い立った。その結果適当なタイトルが思いつかず、ぱっと思い浮かぶ三文字をそのままに書いた。まぁ、眠かったのだ。というか今も眠い。はて、ところでこのひらがな表記の「ねむけ」那辺から由来したものか。そんな具合で記憶を巡らした結果、『さむけ』に行き当たったのだ。

 いや、果たしてあの本が本当に発想の源なのか? もっと根本に、別の何かが潜んでいそうだ。第一、私はあの本を読んでいない。それよりも、伊藤潤二の短編「寒気」もそれなりにありそうではある。こちらはきちんと読んでいるし、氏の短編の中でも特に印象に残っている。……いやさ、この「寒気」は漢字表記であって、ひらがな表記の「ねむけ」を連想させるには少し遠い。第一、あの作品のタイトルが「寒気」であることを覚えていたか? あんまり寒気要素ないんだよねあれ……。「ねむけ」という三文字を思いついて初めて作品のタイトルが「寒気」であることを思い出したくらいだし……。

 しかし、心理学者の名前を持ち出してくるまでもなく、深層心理から伊藤潤二の「寒気」の記憶が湧き上がってきたということも充分に考えられる。この理路で行くならば、連想を補強する要素を探してこなくてはならない。ふーむ。「寒気」は体の至るところに穴が開いていく人物の物語だ。うーん……少なくとも現在、身の回りには穴などない。……いやさ、待て。PCの向こう側、冷蔵庫に苺を象ったキッチンタイマーが張り付けられてある。何で手に入れたのか分からないし、そもそも私の趣味でもないのだが、とにかくいつの間にか所持していた苺タイマー! ひょっとすると、苺の粒粒が、「寒気」の体に開いていた穴を想起させたのかもしれない。いや、そうに違いない。

 これで問題は解決だ! 本記事タイトルは、私の執筆開始時点での「眠い」という感情が、冷蔵庫の苺タイマーの粒粒によって想起させられた伊藤潤二の短編「寒気」によってフィルターにかけられ、また井上雅彦らの『さむけ』を経由し、「ねむけ」という三文字のひらがなとして出力されたものなのだ! まさに思索的分析の勝利、人間の弛まぬ英知の為せる技!

 

 と、ここで本記事の隠れテーマのようなものを紹介する。

 すなわち、「理屈と膏薬はどこへでもつく」。

 なにはさておき、眠いから寝ます。

プロテスタンティズムの倫理にプロテスト

 タイトルで驚いたかと思われるが、私はカトリックではないし、なんなら初詣とかハロウィンとかクリスマスとか、世俗化され切った元宗教的行事に潮流に乗るまま参加するただの凡夫である(ハメは外さないようにしている)。それよりも、問題なのは『プロ倫』だ。

 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、言わずと知れた有名書籍である。イギリス産業革命プロテスタントの信仰義認説や予定説などによって裏打ちされた職務への勤勉さの産物だというのがその要旨だ。高校の国語系科目や倫理などの教科書でおなじみかもしれない。しかし思うのだが、そんな安易に『プロ倫』を礼賛して良いものだろうか。

 産業革命がイギリスで起こり、フランスその他ヨーロッパ諸国で起こらなかった理由についての論述で有名なものは『プロ倫』だけではない。ロバート・バローとラシェル・マクレアリーは、プロテスタンティズム産業革命の因果関係は認めるものの、それはプロテスタントたちが持つ識字率の高さが技術発展に寄与したに過ぎないという。またD.C.ノースは取引コストを削減する効率的な経済組織の発生に産業革命の端緒を見出している。カール・マルクスの「宗教は民衆のアヘンである」というテーゼと、技術水準が外生的に与えられるものであるという彼の理論も、同様に『プロ倫』説への反駁となるだろう。

 歴史家の立場に立てば、エリック・ウィリアムズは奴隷貿易にこそ産業革命の原動力があると主張しているし、I.ウォーラーステイン世界システム論者は徴税請負人への負担を重くして大衆からの直接の反発を抑えたイギリスの財政制度をその原因と見る。いずれにしても、ウェーバーの『プロ倫』説は複数の視点から見直されてしかるべきであり、断じてこれのみを教科書に載せて指導して良いものではないのだ。

 これは憶測だが、当然『プロ倫』において資本主義の発展と密接に関わるものはキリスト教プロテスタンティズムであり、カリキュラムに沿った包括的な学習が求められる学校教育においては、宗教改革から産業革命にいたる単線的な歴史観を提示する方が効率が良く、ために『プロ倫』説が称揚されているのではないだろうか。また、倫理科目で指導される宗教史に、世界史を用意に接続できるという利点もあるだろう。言わせてもらうが、歴史はそんな単線的ではない。複雑系であり、理解しがたく、その解釈をめぐって泥臭い論争が起こることだってままある。ウェーバーの説を指導するならば、それに相反する論説もまた紹介しなければ、片手落ちというものだろう。

 決してウェーバーの功績を否定しようという訳ではない。ウェーバーの「理念型・現実型」概念は、社会学歴史学など幅広い分野における重大なファクターとして今日においても重用されている。むしろこれを紹介すれば良さそうなものだが……。どうしてもウェーバーの具体的功績を中心に紹介したいならば、遺稿集の「経済と社会」などがよさそうなものだ。特に「権力と支配」は素晴らしい。ウェーバーと言えば『プロ倫』の人という認識も、これで改まることを切望する。

「大人の階段を上る」という構造に気づく

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

 今週のお題というものに初めて挑戦する。

 しょっぱなから面倒くさいことを書かせてもらうが、大人/子供の二元論的価値観からの脱却、それこそが「大人」というプロセスなのではないか。すなわち、20歳を過ぎたら一定の権利が認められるようになるという法的な「成人」こそあれ、「大人」など土台存在せず、「大人」の概念を解体していくプロセスにこそ「大人らしさ」があるのではないかと問いたい。

 内田樹は『寝ながら学べる構造主義』において、哲学者ラカンの主張を簡単に「大人になれ」と要約した。実際、その通りだ。ラカンは著書の中で幾つもの動的なイメージを図示することにより、ヒトが心理的に成長するプロセスを描出しきっている。素人が下手なことを得意そうに書き綴って文句を言われてはたまらないので、飽くまで皮相的なラカンの解説に留めたい。つまり、ヒトは抽象的な欲望を抱いており、その欲望を満足させるよう他者に要請するが、いかんせん無限大の欲望を満足させることは叶わず、挫折していく。ここに心理的成長のプロセスが見出せるのだ。(間違っていたらコメントなどでご指摘ください。責任は全て筆者に帰します)

 それでは大人とは何ぞや。「大人の階段上る」とは言うが、「大人の階段」を上り詰めた先に「大人」なるものが存在する訳ではない。そして、階段の一段一段を「大人1/10」とか「大人1/3」とかのように段階的に定義することもできない。「大人の階段」というものは無限大の長さを持ち、終着点もない。クザーヌスの神学論めいたことを言うと、無限大のものに対しては、全ての有限なものは同一だ。つまり、現在上っているプロセスも、過去に上っているプロセスも、未来に上るであろうプロセスも、全て同一だ。赤ん坊の頃に泣きわめくこと、こうして文章をタイプしていること、そして鬼籍に入ること、全てが同一なのだ。

 それでもあえて「大人」という言葉を「大人らしさ」という曖昧な定義に留まらせないようどこかに位置付けるとしたら、「無限大の長さを持つ大人の階段を上っている自分」という構造に気づいてこそ、かもしれない。逃れられない構造の中での、メタ認識だ。認識だけが飛翔する。

 いっそのこと、この構造認識を踏まえた上で「大人の階段を上る」ことに、動詞的な意味で「大人」という言葉を関連付けてしまえば良いのではないか。つまりこの記事を読んで「無限大の長さを持つ大人の階段を上る」構造に気づいた人は、「大人」している。もちろん私も「大人」している。