鳥羽日記

なんとか亭日乗

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思索だってコストがかかる

 適当なことを書いてきたが、特に毎日更新する縛りを設けてブログを始めたわけでもないので、これ以後更新の頻度が落ちることと思う。それも仕方ないことだ。考えることは非常に疲れる。

 それはさておき、昨日はフケーの『水の精』を読んだ。いや馬鹿にならないもので、かなり面白い。幻想怪奇の古典的白眉だ。序盤、急流で陸地から寸断され孤島となった岬に、物語における閉鎖空間の類型を見出した。それは大江健三郎『芽むしり仔撃ち』のような、あるいは「ダンガンロンパ」のような脱出モデルと重なるところもあるものの、『水の精』においては愛の結実として機能する。閉鎖空間の引力と斥力といったものか、あるいは主作用と副作用と言うべきか。

 思考がまとまらない。思考そのものを閉鎖空間からの脱出に重ねてもいいのかもしれない。それ自体意味創発的な、密室からの脱出。

今年はどうしようか

 毎年、新年は何かしらの世界的な文学作品を読みながら過ごすことに決めている。映画を観ながらとかアニメを観ながらでも良さそうなものだが、私にとっては本で年の瀬を迎える方が性に合っているようだ。

 それでは、今年は何を読もうか。去年はアジェンデ『精霊たちの家』、一昨年はヘミングウェイ『誰が為に鐘は鳴る』、一昨々年はディケンズ二都物語』。我ながら幼少期に古典的な名作を読んでこなかったツケを払わされているようだ。

 ひとまず、最近はフランス文学に凝っているので、ここはバルザックを予定しておこう。実は『ゴリオ爺さん』すら読んでいない。読書に満足というものがないことは理解しているつもりだが、全く人生がもう300年くらい長かったなら……。

主〇主義的オタク

 新旧オタクの違いは主知主義から主情主義へと変遷したことが大きいというTwitterのつぶやきを見た。ここの「オタク」は飽くまでサブカルを焦点としてコンテンツに熱を上げる人々のことを指すとし、言葉の独り歩きの結果生まれた中毒とかフリークとか○○主義者とかを表している訳ではないことには留意すべきだ。しかしながら、オタクを世界の縮図と見れば、新旧オタクの違いをそのまま世界史の決定的なイベントに当てはめることができるのではないか。

 言葉の定義を確認すると、主知主義とは人間の精神の中で知性や理性に、主情主義とは感情の働きに重きを置く見方のことだ。この二つの他に、意志の働きを重んじる主意主義もある。この三つは飽くまで相対的な立場であり、喩えるならグー・チョキ・パーのような関係性の中にあってのみ成り立つと言える。

 上記に照らすならば、旧オタクは上記の知性や理性に準じてストア派的な研鑽を極める立場であるのに対して、新オタクは感情の起伏に正直となり、コンテンツに耽溺していく立場だと言えよう。

 こういった新旧オタクの変遷を、私はロマン主義の発生と重ねて見てしまう。いやしかし新オタク=主情主義ロマン主義という関係性は容易に成り立つとして、旧オタク=主知主義と古典主義との関係は成り立たない。古典主義は言うならば近代の小説、映画、漫画など各文化要素から成り立つ、オタク誕生以前の状態だと言えるだろう。そこから啓蒙(!?)によって誕生したのが主知主義的オタクであり、必ずしも古典主義=オタク誕生以前の各文化要素と対立することなく発展していったと見ることができるのではないか。つまり、旧オタク=主知主義啓蒙主義となる。すると、主知主義的オタクの中に胚胎した主情主義的オタクが、まさしく啓蒙主義に感化されて勃興したロマン主義の役割を果たしていることとなる。

 では、主意主義的オタクというのはどうだろうか。私は主情主義的オタクからこの思想が萌芽してくる可能性もあると考える。……と言うより、既に広く発展しているのではないかとすら思う。……と、これ以上書くと日々のつぶやきの範疇を越え出てしまうと思うので、今日はこの辺で。

 お粗末!

保留の美学

 今日、『テクノロジーの世界経済史』をKindleで購入した。ポイント半額還元セール中だったため、総額だいたい1700円くらい戻ってくる。嬉しー。

 よく「買わない理由が値段なら買え、買う理由が値段なら買うな」という文句が叫ばれるが、この場合は元々買いたかったものが値下げされたために買いやすくなったというだけなのだから、何ら問題はない。しかし、こういった文句が出回ると本当に欲しいものは何なのか分からなくなってしまう。

 仮に還元セールが行われなかったら私はこの本の購入を保留にしただろうが、かと言って元から欲しかったという感情が消える訳ではない。買う理由も買わない理由も相応にあっての保留なのだ。買う理由が存在しないものに対しての保留は存在しない。そういう訳で、買わない理由が値段でも無理して買う必要はない。保留するのも戦略だ。

 マクロな視点の経済本を前にしてこのようなミクロな思索を迫られるとは、自分自身の矮小さを痛感するばかりである。

サムーいギャグ

 こう寒いと、アニメにありがちなカチンコチンに凍り付くギャグ的な演出が思い出される。ポケモンで言うならばれいとうビームを食らった後のあれだ。この演出なのだが、実際のところ人間が氷漬けになると一瞬にして死んでしまうらしい。血管や臓器、脳まで凍ってしまうからだろうか。恐ろしい話である。

 そんな事情でコミカルなアニメ御用達の氷漬け演出だが、昔観たリアリズム重視のアニメ映画にもそんなシーンがあった。「機動警察パトレイバー the Movie」だ。

 序盤から中盤にかけてのシーンに、登場人物の一人が氷漬けになるシーンがある。最初それを観たとき、割とシリアスな局面だっただけに先述のように脳まで凍り付いて死んでしまったかと思った。しかし、数秒後のシーンで生存していることがさらっと明かされ、「あいつは今風呂に入ってる」だったかそういった旨のセリフが他の登場人物から発せられることにより、結局コミカルな演出に過ぎなかったのだと判明する。しかし、ああもカチンコチンでは折角のギャグも笑うに笑えない。いかんせんリアル寄りの作品だったからということもあるだろう。

 実は、氷漬けでもう一つ思い出すアニメがある。「Mr.インクレディブル」だ。序盤で登場人物が氷漬けになるのだが、こちらでは氷漬けになった人間が目をキョロキョロと動かしており、生存が一瞬にして確認できる。すなわち、ギャグ的な演出であることが一目瞭然なのだ。

 ギャグが上手くハマらないとき、それはサムいと形容される。どうしてギャグはサムくなるのか。ひとまず、ギャグだと一瞬にして分かる要素をギャグ自体に内包してはどうか。疑問も氷解するかもしれない。

落下しておやすみ

 近ごろ眠れない夜が続いている。そんな中で現在放送中のTVアニメ「魔王城でおやすみ」を観るとなんだか眠る力というか、力んだら余計眠れなくなるのではないかという疑問は湧いてきそうだが、とにかくそういったパワーが湧いてくるのだ。といっても流石に丑三つ時まで起きているわけではなく、録画したものを視聴している。

 しかし何ということだろう。今回は録画に失敗してしまった。先週裏番組で放送していた映画「落下の王国」を録画したために起こった悲劇だろうか。同時録画はちゃんと機能していたし、今週も何事も起こるまいと思っていたのだが。無念だ。

 仕方がないので、今夜は「落下の王国」を視聴した際の記憶を睡眠導入剤にしようと思う。名優たちに儚くもその名前を漉しとられてしまったスタントマンたちに捧ぐ映画。サイレント映画の剣呑なスタントシーンが矢継ぎ早に繰り出されるラストシーンは圧巻だ。願わくば私も、彼らのような熱量でもって蒲団の底の底へ落下していきたい。すやぁ。

船を漕ぐ人たち

 思えば、ロシアは歴史的に船を漕いでいたような国なのだ。民族的、自然的な意味での絶海をもがきながら渡っている。時に荒波を切り裂き、時に転覆し、そして今も船を漕いでいる。そんな国がロシアなのだろう。

 という訳で、ロシア現代思想についていろいろと学びたいのだがとっかかりはどこにあるだろうか。(展開が早い)

 ひとまずロシアに誕生した思想が善きにつけ悪しきにつけ世界という絶海に波紋を呼び起こしたことは間違いないのであるし、現代でもその余波は残っている。更に厄介なことに、何十年も前に投じられた石の起こした小波(世界的に見て)が、いよいよアクチュアルな空気を持って大波へと変化しようとしているとなれば、注目せざるを得ない。

 その小波が何かと言えば、すなわち人新世である。人新世とは何ぞやという向きも多いと思うので簡単に説明すると、人間が地理や生態系に重大な影響を及ぼすことが可能になってから以後の年代を、完新世に次ぐ新たな時代区分として想定したものであり、トリニティ実験をその起点とするという説もある。

 私も人新世についての知識が乏しいためにここで詳しく解説することはできないが、戦後の急速な変化の中で生まれたきたようなこの思想は、約80年前、既にウラジーミル・ヴェルナツキーとテイヤール・ド・シャルダンという二人のロシア人の手によって、ノウアスフィアという形でその原型が紹介されている。

 ノウアスフィアとは生物圏すなわちバイオスフィアを越えた先に現れる圏域であり、人間の思考の領分だとされている。進歩主義的でいかにも怪しげではあるが、インターネットの発展によって情報の集積が急速に進むと同時に、この思想のアクチュアリティが再検討されるまでに至ったのである。

 ひょっとすると、この情報の海の中から新たな人類のステージが発掘される、いやもしかしたら、新たな人類そのものが誕生するのではないか……? という、なんだか「Serial experiments lain」のような、「GHOST IN THE  SHELL/攻殻機動隊」のような、そんな話である。

 とにもかくにも、この人新世の荒波をどれだけ掻き分けて生き続けられるか。その重大なヒントは、ロシアの思想に隠されているのではないかと私は思うのだ。何となれば、ロシアはノルマン人の一部であるルーシ人をその語源とし、ルーシとはすなわち、船を漕ぐ人という意味があるとされているのだから。