鳥羽日記

なんとか亭日乗

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グロテスク・パレード

 ヴォルフガング・カイザー『グロテスクなもの』を読んでいる。ボッシュ、地獄のブリューゲル、ポー、ホフマンら芸術界の巨匠を通じて「グロテスク」という言葉に秘められた深淵を解き明かそうという書物だ。集中しないと目が滑ってかなわない。ひとまず半分くらいで一息ついて、この記事を書いている。実に10日くらいぶりか?

 グロテスクという言葉の由来がネロ帝時代の宮殿ドムス・アウレア、通称グロッタの美術にあるということは有名である。すなわち、植物・動物・鉱物などの混合、物理的現実からの逸脱などの諸特徴が第一にあるのだ。それからグロテスクは諧謔や諷刺などの概念としばしば近接しながら、現代的なスプラッタの意味まで内包する射程の広い言葉となるのだが……それは置いておこう。一言で簡単にまとめるならば、我々人間が器となり、外部世界がふとした瞬間に霊的な存在となって内側に忍び込もうとしている事実を鑑みれば、世界は常にグロいものであると解釈ができるだろう。

 上記に基づけば、アニメ映画「パプリカ」の圧巻のパレードシーンはまさしくグロテスクなパレードだと言えるだろう。一見無秩序な無機物たちの配列は、外部世界が夢に陥入していくおぞましきパワーとして体系づけられたものなのだ。私はあのパレードに霊感を得る。ひょっとすると「グロテスク」という言葉自体が、あのパレードのようなものではないか? 人類が発見した、形而上の敵。人間を退廃と堕落に誘う外部世界は、「グロテスク」という言葉に宿って具体性を持つ。エロ・グロ・ナンセンスという形で自らを実現させるための子分を引き連れて、魔性の声で囁く。

 悪魔はグロテスクだ。そして、「グロテスク」が悪魔だ。

 

(主〇主義的オタクの続き? ごめぇん、ちょっと待って)