鳥羽日記

なんとか亭日乗

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主〇主義的オタク

 新旧オタクの違いは主知主義から主情主義へと変遷したことが大きいというTwitterのつぶやきを見た。ここの「オタク」は飽くまでサブカルを焦点としてコンテンツに熱を上げる人々のことを指すとし、言葉の独り歩きの結果生まれた中毒とかフリークとか○○主義者とかを表している訳ではないことには留意すべきだ。しかしながら、オタクを世界の縮図と見れば、新旧オタクの違いをそのまま世界史の決定的なイベントに当てはめることができるのではないか。

 言葉の定義を確認すると、主知主義とは人間の精神の中で知性や理性に、主情主義とは感情の働きに重きを置く見方のことだ。この二つの他に、意志の働きを重んじる主意主義もある。この三つは飽くまで相対的な立場であり、喩えるならグー・チョキ・パーのような関係性の中にあってのみ成り立つと言える。

 上記に照らすならば、旧オタクは上記の知性や理性に準じてストア派的な研鑽を極める立場であるのに対して、新オタクは感情の起伏に正直となり、コンテンツに耽溺していく立場だと言えよう。

 こういった新旧オタクの変遷を、私はロマン主義の発生と重ねて見てしまう。いやしかし新オタク=主情主義ロマン主義という関係性は容易に成り立つとして、旧オタク=主知主義と古典主義との関係は成り立たない。古典主義は言うならば近代の小説、映画、漫画など各文化要素から成り立つ、オタク誕生以前の状態だと言えるだろう。そこから啓蒙(!?)によって誕生したのが主知主義的オタクであり、必ずしも古典主義=オタク誕生以前の各文化要素と対立することなく発展していったと見ることができるのではないか。つまり、旧オタク=主知主義啓蒙主義となる。すると、主知主義的オタクの中に胚胎した主情主義的オタクが、まさしく啓蒙主義に感化されて勃興したロマン主義の役割を果たしていることとなる。

 では、主意主義的オタクというのはどうだろうか。私は主情主義的オタクからこの思想が萌芽してくる可能性もあると考える。……と言うより、既に広く発展しているのではないかとすら思う。……と、これ以上書くと日々のつぶやきの範疇を越え出てしまうと思うので、今日はこの辺で。

 お粗末!