鳥羽日記

なんとか亭日乗

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主〇主義的オタク

 新旧オタクの違いは主知主義から主情主義へと変遷したことが大きいというTwitterのつぶやきを見た。ここの「オタク」は飽くまでサブカルを焦点としてコンテンツに熱を上げる人々のことを指すとし、言葉の独り歩きの結果生まれた中毒とかフリークとか○○主義者とかを表している訳ではないことには留意すべきだ。しかしながら、オタクを世界の縮図と見れば、新旧オタクの違いをそのまま世界史の決定的なイベントに当てはめることができるのではないか。

 言葉の定義を確認すると、主知主義とは人間の精神の中で知性や理性に、主情主義とは感情の働きに重きを置く見方のことだ。この二つの他に、意志の働きを重んじる主意主義もある。この三つは飽くまで相対的な立場であり、喩えるならグー・チョキ・パーのような関係性の中にあってのみ成り立つと言える。

 上記に照らすならば、旧オタクは上記の知性や理性に準じてストア派的な研鑽を極める立場であるのに対して、新オタクは感情の起伏に正直となり、コンテンツに耽溺していく立場だと言えよう。

 こういった新旧オタクの変遷を、私はロマン主義の発生と重ねて見てしまう。いやしかし新オタク=主情主義ロマン主義という関係性は容易に成り立つとして、旧オタク=主知主義と古典主義との関係は成り立たない。古典主義は言うならば近代の小説、映画、漫画など各文化要素から成り立つ、オタク誕生以前の状態だと言えるだろう。そこから啓蒙(!?)によって誕生したのが主知主義的オタクであり、必ずしも古典主義=オタク誕生以前の各文化要素と対立することなく発展していったと見ることができるのではないか。つまり、旧オタク=主知主義啓蒙主義となる。すると、主知主義的オタクの中に胚胎した主情主義的オタクが、まさしく啓蒙主義に感化されて勃興したロマン主義の役割を果たしていることとなる。

 では、主意主義的オタクというのはどうだろうか。私は主情主義的オタクからこの思想が萌芽してくる可能性もあると考える。……と言うより、既に広く発展しているのではないかとすら思う。……と、これ以上書くと日々のつぶやきの範疇を越え出てしまうと思うので、今日はこの辺で。

 お粗末!

保留の美学

 今日、『テクノロジーの世界経済史』をKindleで購入した。ポイント半額還元セール中だったため、総額だいたい1700円くらい戻ってくる。嬉しー。

 よく「買わない理由が値段なら買え、買う理由が値段なら買うな」という文句が叫ばれるが、この場合は元々買いたかったものが値下げされたために買いやすくなったというだけなのだから、何ら問題はない。しかし、こういった文句が出回ると本当に欲しいものは何なのか分からなくなってしまう。

 仮に還元セールが行われなかったら私はこの本の購入を保留にしただろうが、かと言って元から欲しかったという感情が消える訳ではない。買う理由も買わない理由も相応にあっての保留なのだ。買う理由が存在しないものに対しての保留は存在しない。そういう訳で、買わない理由が値段でも無理して買う必要はない。保留するのも戦略だ。

 マクロな視点の経済本を前にしてこのようなミクロな思索を迫られるとは、自分自身の矮小さを痛感するばかりである。

サムーいギャグ

 こう寒いと、アニメにありがちなカチンコチンに凍り付くギャグ的な演出が思い出される。ポケモンで言うならばれいとうビームを食らった後のあれだ。この演出なのだが、実際のところ人間が氷漬けになると一瞬にして死んでしまうらしい。血管や臓器、脳まで凍ってしまうからだろうか。恐ろしい話である。

 そんな事情でコミカルなアニメ御用達の氷漬け演出だが、昔観たリアリズム重視のアニメ映画にもそんなシーンがあった。「機動警察パトレイバー the Movie」だ。

 序盤から中盤にかけてのシーンに、登場人物の一人が氷漬けになるシーンがある。最初それを観たとき、割とシリアスな局面だっただけに先述のように脳まで凍り付いて死んでしまったかと思った。しかし、数秒後のシーンで生存していることがさらっと明かされ、「あいつは今風呂に入ってる」だったかそういった旨のセリフが他の登場人物から発せられることにより、結局コミカルな演出に過ぎなかったのだと判明する。しかし、ああもカチンコチンでは折角のギャグも笑うに笑えない。いかんせんリアル寄りの作品だったからということもあるだろう。

 実は、氷漬けでもう一つ思い出すアニメがある。「Mr.インクレディブル」だ。序盤で登場人物が氷漬けになるのだが、こちらでは氷漬けになった人間が目をキョロキョロと動かしており、生存が一瞬にして確認できる。すなわち、ギャグ的な演出であることが一目瞭然なのだ。

 ギャグが上手くハマらないとき、それはサムいと形容される。どうしてギャグはサムくなるのか。ひとまず、ギャグだと一瞬にして分かる要素をギャグ自体に内包してはどうか。疑問も氷解するかもしれない。

落下しておやすみ

 近ごろ眠れない夜が続いている。そんな中で現在放送中のTVアニメ「魔王城でおやすみ」を観るとなんだか眠る力というか、力んだら余計眠れなくなるのではないかという疑問は湧いてきそうだが、とにかくそういったパワーが湧いてくるのだ。といっても流石に丑三つ時まで起きているわけではなく、録画したものを視聴している。

 しかし何ということだろう。今回は録画に失敗してしまった。先週裏番組で放送していた映画「落下の王国」を録画したために起こった悲劇だろうか。同時録画はちゃんと機能していたし、今週も何事も起こるまいと思っていたのだが。無念だ。

 仕方がないので、今夜は「落下の王国」を視聴した際の記憶を睡眠導入剤にしようと思う。名優たちに儚くもその名前を漉しとられてしまったスタントマンたちに捧ぐ映画。サイレント映画の剣呑なスタントシーンが矢継ぎ早に繰り出されるラストシーンは圧巻だ。願わくば私も、彼らのような熱量でもって蒲団の底の底へ落下していきたい。すやぁ。

船を漕ぐ人たち

 思えば、ロシアは歴史的に船を漕いでいたような国なのだ。民族的、自然的な意味での絶海をもがきながら渡っている。時に荒波を切り裂き、時に転覆し、そして今も船を漕いでいる。そんな国がロシアなのだろう。

 という訳で、ロシア現代思想についていろいろと学びたいのだがとっかかりはどこにあるだろうか。(展開が早い)

 ひとまずロシアに誕生した思想が善きにつけ悪しきにつけ世界という絶海に波紋を呼び起こしたことは間違いないのであるし、現代でもその余波は残っている。更に厄介なことに、何十年も前に投じられた石の起こした小波(世界的に見て)が、いよいよアクチュアルな空気を持って大波へと変化しようとしているとなれば、注目せざるを得ない。

 その小波が何かと言えば、すなわち人新世である。人新世とは何ぞやという向きも多いと思うので簡単に説明すると、人間が地理や生態系に重大な影響を及ぼすことが可能になってから以後の年代を、完新世に次ぐ新たな時代区分として想定したものであり、トリニティ実験をその起点とするという説もある。

 私も人新世についての知識が乏しいためにここで詳しく解説することはできないが、戦後の急速な変化の中で生まれたきたようなこの思想は、約80年前、既にウラジーミル・ヴェルナツキーとテイヤール・ド・シャルダンという二人のロシア人の手によって、ノウアスフィアという形でその原型が紹介されている。

 ノウアスフィアとは生物圏すなわちバイオスフィアを越えた先に現れる圏域であり、人間の思考の領分だとされている。進歩主義的でいかにも怪しげではあるが、インターネットの発展によって情報の集積が急速に進むと同時に、この思想のアクチュアリティが再検討されるまでに至ったのである。

 ひょっとすると、この情報の海の中から新たな人類のステージが発掘される、いやもしかしたら、新たな人類そのものが誕生するのではないか……? という、なんだか「Serial experiments lain」のような、「GHOST IN THE  SHELL/攻殻機動隊」のような、そんな話である。

 とにもかくにも、この人新世の荒波をどれだけ掻き分けて生き続けられるか。その重大なヒントは、ロシアの思想に隠されているのではないかと私は思うのだ。何となれば、ロシアはノルマン人の一部であるルーシ人をその語源とし、ルーシとはすなわち、船を漕ぐ人という意味があるとされているのだから。

楕円形人生、ソラリス的人生、海からは語り得ない何物かが湧いてくる

1.もう二冊ぐらいは

 花田清輝の『復興期の精神』を講談社文芸文庫で読んでいる。これもKindle Unlimitedで無料で読める一冊だ。講談社文芸文庫には他にも花田の評論集があるものの、無料で読めるのはこれくらいか。ちょっと悲しい。もうちょっと無料で読みたかった。(図書館行け)

 

2.人生いろいろ、楕円もいろいろ

 さて、『復興期の精神』はレオナルド・ダ・ヴィンチやらダンテやらポーやらセルバンテスやら偉人の事績を通じて人の生とはなんたるかを追究したものである。分けても白眉と言えるのはヴィヨン-ゲーテ-アリストファネスの一連の論考を通じて浮かび上がってくる楕円的思考だろう。

 楕円というのは言わずもがな手で押しつぶした大福のような形だが、数学的な定義に倣うと、二点からの距離の和が一定となるような点の集合から作られる曲線ということになる。核を二つ持っているのだ。つまり真円とは異なり、その言葉を満たす図形の差異は単純な大きさにのみあるのではなく、二点間の距離によって定められるどのくらい真円っぽいか直線っぽいかという度合いもまた重要になるのだ。

 

3.生の弁証法

 花田はこの二つながら焦点を持つ楕円を、対立する事物の止揚の形として提示している。ん、なんだ弁証法が図示されただけではないか? 花田はわざわざ楕円という微妙にペダンティックな語彙を弄して何を言いたいのだろうか。

浪漫派のベルグソンのエラン・ヴィタールとともに、古典派のバビットのフラン・ヴィタールもまた、みとめざるを得ない、というわけである。

 ここに引用したエラン・ヴィタールとは、まずベルグソンが提唱した”生の飛躍”なる生命進化の一般規則なるものである。この絶え間なく(それこそ"持続"的に)発せられる謎めいた波動的エネルギーによって、われわれ生命は生きているのである。と雑駁ながら定義したい。

 一方でフラン・ヴィタールとは、バビットがエラン・ヴィタールの対抗軸として設定した語彙である。それはつまり、遠心的なエラン・ヴィタールに対する求心的なフラン・ヴィタール。生の飛躍に対する生の統制と言えるだろうか。エントロピーに対するネゲントロピーと言うと伝わりやすいかもしれない。(磁場を縫って走れ)

 花田は、この二つの対となる動きを楕円のモデルの中に取り込むのである。 要は、花田は楕円の焦点が二つあるということを通じて、その点がフラン/エラン両エネルギーの集中点だと示したかったのである。ラカンめいて軽妙な図示だ。

 

4.転変する生モデルの『ソラリス』、生命が存在すると想定すること

 安直な連想かもしれないが、花田も本文中で挙げている通り、楕円と聞くと惑星の軌道が思い浮かぶ。そして私たちは、この太陽系の楕円軌道が複雑怪奇な宇宙的物理現象によって決定されたものであることを何となく理解している。

 しかし、宇宙的な考え方としてその中心を太陽と考えるところまでは良いものの、数学的にその楕円の中心はどこであるかなどと考えてみたことはないのではないか。

 惑星軌道という巨大すぎる対象に対して花田の楕円的考え方を適用するならば、その数学的焦点を考察するよりも、宇宙的焦点が二つ存在するものを想像する方が容易い。要は、二つの恒星によって生み出される連星系を、である。SFマニアが憤慨しかねない喩えを出させてもらうと、私はスタニスワフ・レムの作品に登場する、惑星ソラリスを想起する。連星系軌道上を巡る謎めいた星。

 さて、ミステリにしろSFにしろ、世界にまつわる膨大な知識を前にしては、作家は多少のウソを混ぜなくてはならない。つまり、ちょっと曖昧なものでもそれはそういうものだということで作品を書いてしまうのである。『ソラリス』においては、それは連星系の惑星は環境の転変が激しいので、生命は発生し得ないという形で現れてくる。

 このソラリス的宇宙感、すなわち著しい転変が常に起こり得るというモデルを、そのまま花田の楕円的思考と関連させるのは短絡だろうか。生の飛躍と統制の末に生まれる、持続的転変の中にある惑星軌道として人生を省察すること、そこに生命、ひょっとすると自我や魂、レゾンメートルなど本来は発生し得ないというモデルを省察すること、それは無謀な試みだろうか。

 それでも作中でソラリスが海から生み出す生命っぽい何かを見ると、これは我々人類の本性を体現したもののように感じる。魂やら自我やら、存在し得ないものを想像の中に生み出す、悲しくもたくましいさが。それこそ、ラカン的理想自我の次元ではなかろうか。

 

終わりに

 完全に余談ではあるが、私は数年前に『ソラリス』を読んだきりずっとレムのウソに翻弄され続けている。レンセーケーのワクセーにセーメーが発生しないのは本当なのだろうか。まるで魔法にかけられてしまったようだ。だもんでレムのこのウソを私はスタニスワフ・マジックと呼んでいる。

 閑話休題。花田の話をしようと思ったらレムやらラカンやらすごい方向に行ってしまった。しかし花田の議論は射程範囲が広くて面白い。彼は戦後の日本思想を切り拓いたアバンギャルドな思想家の一人であるので、むしろこれくらいの度胸を持って論を展開する方が花田っぽさに合致すると言えばするのだろう。それこそ、ドストエフスキーのがスウィフトの作品を引用ミスしたというくだりから比量的思考についての考察が始まっているのだから、もう何でもアリである。(こういうと怒られそうだ)

 ひとまず、花田の文章を読んで学んだこととしてもうひとつ挙げるとするならば、自分のウソに自信をもって論を展開すべしという教訓だろう。まさしくスタニスワフ・マジック的に読み手を騙す覚悟で。

 

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

 
ソラリス (ハヤカワ文庫SF)

ソラリス (ハヤカワ文庫SF)

 

充電

 ノートPCの充電が切れそうなので切れるまでの間に一本だけ記事を書き上げてしまうことにするすると時間の節約が肝心となるので可能な限り句読点は省略せざるを得ないのであって自然ポストモダン文学すなわちヴァージニア・ウルフめいた文章になってしまうことには留意されたいしかしこういう意図的に句読点を省略した文章で思い出すのは谷崎の『春琴抄』だがあれは読みづらくて敵わなかった個人的にはウルフよりも読みづらかったように思うしかしいかなポストモダンや谷崎でもちゃんと句点を打つところには句点を打っていたのであってただ無秩序に句読点を省略していたのではないことについて意識を向けるべきであろうではこの辺でひとつ。

 よしよかった最初に段落の一文字空けるやつをやってしまったからには中途半端にならないよういくつかの段落を作るべきだろうという考えがあったので定期的に句点を打って段落を変える口実ができたのであるめでたしめでたししかし意外に充電が切れない一息いれて充電の残りを覗いてみるかではまたもうひとつ。

 3パーセントである3パーセントである伝令、3パーセントであるおっと何気に読点が初登場であるそろそろタイプする指も疲れてきたしPCの挙動も不安定になってきたではこの辺で

 

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