鳥羽日記

なんとか亭日乗

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『ロレンザッチョ』時間論――断絶としての時の生き方、父よ時間に引き戻せ、さて去勢の時間である

  1.前置き

 Kindle Unlimitedに入会した。ついでにブログも立ち上げた。折角なので読んだ本の内容でも適当に書き綴ろう。前置き終わり。

 

2.なんやかんやで

 Kindle Unlimitedでは光文社古典新訳文庫講談社文芸文庫を無料で読むことができる。古典文学となると金を払ってまで読んだものか悩ましいことも多く、こういったサービスはありがたいものだ。私は既に『シラノ・ド・ベルジュラック』を読んでいる。「素晴らしき日々」に影響されたものであるが、ここで詳述は控える。(モン・パナッシュ!)

 そういう訳でフランス文学、とりわけ演劇界の文脈を把握するためには『シラノ』に引き続く作品を読まねばなるまいと思い立ち、無料で読める品目の中から『ロレンザッチョ』にスポットを当てたという経緯である。奇しくも訳者は『シラノ』を訳した渡邉守章氏。『シラノ』の訳註にはまったく感嘆させられたものである。

 さて、ひとまずフランス演劇界の文脈を捉えんと『ロレンザッチョ』を読んだのではあるが、ロマン主義云々の理解は私に足りていないため、本稿では『ロレンザッチョ』の内容、および渡邉守章氏の解説から想起した諸々の内容について思索する。当然のように本書の内容について触れまくるので、留意されたい。

 

3.ロレンザッチョ、フィリップ、時間

 『ロレンザッチョ』は皇帝によるローマ劫略の残り火が未だ燻り続けているフィレンツェ公国を舞台とし、皇帝により公位を授けられたアレッサンドロ、公爵に同性愛的にすり寄りながら共和制の復興を野望するロレンゾ、共和制の理想を高らかに述べ立てるフィリップ、義妹が公爵の愛人であることをいいことにおこぼれに与ろうとするチーボ枢機卿、といった面々による政治ゲーム(暗に性事ゲーム?)が、各々のカタストロフに向かって緻密に描かれている。

 中でも対比として見事なのは、ロレンゾとフィリップの関係である。ロレンゾはローマの遺跡を訪れた折、不意に悟りめいた何某の感情を得、共和制復興の想いを萌す。そして最終的にロレンゾはアレッサンドロを暗殺し、フルキヨキ共和制へのミチスジを作り上げるのだ。尤も、アレッサンドロ亡き後はハプスブルク家による支援を得たコジモ1世が公位を継いで中央集権化を推し進め、フィレンツェ公国トスカーナ大公国へとその姿を変えることとなる。行動の皮肉な結末よ。

 一方でフィリップは理想主義的な側面があり、ロレンゾのように実践的行動を起こしはしない。それどころか溺愛する愛娘が毒殺され、いよいよその悲劇的熱量でもって革新に向かい動きだすかと思えば、何やらむせび泣くばかりで気力も魂も抜かれてしまったようである。と、こう書いてみるとフィリップが気弱なクチだけのどうしようもない男のように思えるが、しかして理想的でありながら現実っぽい、つまり凡庸なまでにリアルな人間であることも頷けよう。私に子供はいないが、多分その子が殺されたら何もかも放り出してしまいたくなるに違いない(違いないったら違いないのだ)

 この両者の違いは、彼らの過ごす時間観念にある。すなわち、フィリップは時間を連続的・経験的な一連の流れとして見なす。一方でロレンゾは、断絶的、たまに逆流さえするものとして時間を見るのである。つまり、クロノス的時間とカイロス的時間の対比が両者の間に現れているのだ。経験と積み重ねの果てに何かがやってくるという日和見主義的なフィリップの時間。遺跡にてカリグラが月から得た狂気のようにして時間の流れの中で瞬間的に“至った”ロレンゾの時間。同じ共和制への理念を胸に抱く者でありながら、なぜこうも両者は異なるのか。

 

4.ロレンゾに分裂を、父なるフィリップより祝福を

 前節の疑問に答えるためには、ロレンゾの分裂について考察する必要があるだろう。劇中にてロレンゾはアレッサンドロへの一件同性愛的にも見えるすり寄りを経ながら、暗殺の機会を伺う。当然フィレンツェの市民にとっても、ロレンゾはアレッサンドロの太鼓持ちのように映っている。共和制への理念を抱えるロレンゾが第一の側面だとすれば、太鼓持ちとしてのロレンゾは第二の側面である。太鼓持ちとしての人格が飽くまで共和主義者としての人格の従たるものに過ぎないとすれば、ロレンゾは第一の側面から第二の側面という”仮面”を分化させ、自らの野望の手段としたのだろう。

 この”仮面”が生じる前提にあるのは、アレッサンドロ暗殺のための意志であり、更にその根底を流れるのはカイロスとしての時間観念である。さて、物事に優劣をつける際には非常に慎重にならねばならないのがこの相対主義の時代であるが、あえて、カイロス的時間はクロノス的時間から分化したものであると主張してみたい。おや、ここにも分裂のイメージが渦巻いている。

 すなわち、ロレンゾはクロノスからカイロスを分裂させるとともに、共和主義者の人格から太鼓持ちの人格を分裂させたのである。二重の分裂。また、この際に太鼓持ちとしての人格が同性愛的に、つまりロレンゾの肉体とは異なって女性的に描かれているという点は重要である。

 さて、分化したナニガシには基軸たる元のナニガシへ回帰しようとする力が加わる。現に、ロレンゾは暗殺の直前になって周辺の人々に向かって暗殺計画があるという旨を吹聴して回る。太鼓持ちの人格が共和主義者の人格に回帰しようとしたのである。そして、カイロス的時間もクロノス的時間へ回帰しようとする。その際にキーとなるのは、何を隠そうフィリップなのである。

 クロノス的時間を生きるフィリップは、作中度々ロレンゾに対して父的な役割を発する。ロレンゾが作中最初に暗殺計画を暴露するのはフィリップに対してである。作品のほとんど完全な中盤のこの時点でフィリップとロレンゾの対比が明確になるのであるが、ここにロレンゾのフィリップへの回帰が見られる。つまり、父が発するクロノス的時間への、カイロス的時間の回帰である。カイロス的時間に与えられる回帰圧力は、この共和主義的信仰告白とも取れるシーンにて最高潮に達するのである。

 となれば父なるフィリップは、クロノス的時間という祝福を与えねばなるまい。しかしロレンゾはカイロス的時間の回帰圧力を振り切り、信仰告白を済ませた後も暗殺の心意気を少しも弱めることはないのである。その際、フィリップは暗殺を思いとどまるよう何度もロレンゾを説得していた。しかして何故、ロレンゾは祝福を逃れたのか。

 

5.去勢不安、同性愛的な失敗

 なんとなればフィリップの祝福それ自体が去勢であるからである。クロノス的時間(ペニス)を持つ父は、カイロス的時間(去勢不安以前の状態)を生き、共和制(母=理想たるフィレンツェ)を奉じるロレンゾに対して去勢(カイロスからクロノスへの回帰圧力)をちらつかせる。去勢不安に打ちのめされたカイロス的時間は、やがてクロノス的時間へと回帰せざるを得なくなるが、ロレンゾはそうはならない。なぜならば、ロレンゾが分化させた人格が女性的であったためである(!?)。

 ロレンゾのカイロス的時間(ここで去勢不安以前の状態は女性のペニス欠如と近似していく)はやがて、ペニス欠如の自覚を基に母たる共和制そのものへと近接する。すなわち、共和制の体現者、革命の実行者そのものにならんとするのである。ここにフィリップの去勢は失敗する。それはロレンゾの女性的な分裂の方式による失敗であり、この失敗により、カイロス的時間のクロノス的時間への回帰は行われず、カイロス的時間はそれ自体が母たる共和制へのエネルギーとして機能し始めるのである。

 こうして考えてみれば、ロレンゾがフィリップによる祝福を免れ暗殺を実行できたのは、暗殺の対象であるアレッサンドロとの同性愛的な関係に依るところが大きいのではないだろうか。アレッサンドロとロレンゾ、破滅を内包した男たち。

 

終わりに

 ロレンゾは暗殺を終えた後に懸賞金をその首にかけられ、やがて殺されてしまう。この場面は分裂が必要なくなったことにより太鼓持ち=同性愛的な人格が消え去ったためにいよいよクロノス的時間を持つ他の父性的存在に去勢されたと考えることも可能そうではあるが、これ以上の深堀りは避けたい。

 テーマがテーマだけに左派的なイメージの付き纏う本作ではあるが、人生哲学の応用としても有用な材料になるのではないか。カイロス的時間からクロノス的時間への回帰を拒否せんとするならば、まずは男性性を捨象し、両性具有的存在にならんと欲せ。アンドロギュノスはかく語りき。どんとはらい。

ロレンザッチョ (光文社古典新訳文庫)

ロレンザッチョ (光文社古典新訳文庫)